今日は、なんとなくこの人!
村田甲次郎捕手を紹介します。
村田 甲次郎 (むらた こうじろう)
経歴:私立萩高校-大坂大学
巧みなリードと意外性のあるバッティングを持ち味とする「萩の要」
県大会でもベスト16が関の山だったチームを全国優勝に導いた、いわば軍師そのものである。
チーム内での信頼は厚いものの、非常に不愛想であり、よその人間からすると「あいさつの出来ない無礼者」と見えがちである。
モデルはかつて「天才軍師」と呼ばれた大村益次郎です。
え?誰だよそいつって?
しょうがねぇなぁ(悟空)
1824-1869
幕末期の軍学者、西洋学者、医者
若いころは、緒方洪庵の適塾(大阪大学医学部の前身)などで学び、実家の村医を継いだ。しかし評判は非常に悪く、風邪の患者に「家で寝てれば治る」と言って診察代を貰わずに追い返したりしていた。(父が「葛根湯医師」と言われてきた反動かもしれないが)
その後は宇和島藩で軍艦造ったり、江戸で鳩居堂という私塾を開いたり、ヘボンの下で英語を学んだり、福沢諭吉に攘夷の必要性を熱く語りドン引きさせたりした。
第二次長州征討(四境戦争)で、彼の軍才は開花する。
西洋から取り入れた戦術を巧みにこなし、僅かな兵力で島根の浜田まで制圧した。
戦争自体は家茂の死によって終結し、幕府の威厳を失墜させるに等しい結果となった。
時は流れ、戊辰戦争の江戸無血開城後の江戸では、彰義隊といった慶喜の警護を目的とした部隊が残っていた。肝心の慶喜は江戸ではなく水戸に行っており、新政府側からみたらただの不満分子であった。
新政府の威厳を江戸で確立させたいが、彰義隊を追い出すには市民のいる中で戦争しなければならないというジレンマに陥ったところに妙案を出し、全部隊を仕切ることになったのが、大村益次郎であった。
彼は雨降る中、彰義隊に宣戦布告をし、日が出ている間わずか1日で上野にいた彰義隊を追い払ったのだ。これにより、新政府の面子を守りつつも、街への被害を最小限に抑えたことにより、東京という近代都市が生まれることになった。
その後、彼は京都の木屋町で襲撃を受け、そこでできた傷が悪化し死亡した。
まさに、國が必要としたときに彗星の如く表れ、颯爽と去った、花神の役目を担うために幕末を生きた人物であった。
あちゃ、真面目に書きすぎた。
余談ですがパワポケ10で神条紫杏が彼について言及するイベントもあります。パワポケ14の裏サクセスに関しては、彼女はもはや蔵六そのものです。
・能力などについて
逆境〇
入れようと思った(四境戦争要素)が、青特が多すぎると気持ち悪いので。
画像ファイルはこちらから
書いてみて思ったけど、この記事需要なさそうな気がする...